うごく床

六法全書にも、条例にも書かれていない。
東京に来て驚いたのは、目に見えないルールがあることだった。
そのひとつが、エスカレーターの乗り方。
みんなきれいに左側に立ち、右側がきれいに空いている。
なぜ、みんな左側に寄って立っているのか。
右側に居てもいいじゃないか。
田舎者には、不思議な光景だった。


理由がわからず、右側に立ってみた。
すると、後から足音がした。
人が、歩いてくる。
立っているだけで目的の場所に連れていってくれる便利な機械だというのに、わざわざその機械の上を歩いている。
歩いても歩かなくても、どちらにしろ目的地にたどり着けるのに。
「エレベーターを駆け上がると、危険です。絶対にやめましょう」
田舎のデパートでは、エレベーターに乗る前にそんなアナウンスが流れていたように思う。
親からも、「エレベーターでは歩かない」としつけられてきた。
歩いてはいけないものだ、エレベーターは。
それなのに、都会では、歩かなくてはいけないものらしい。
「エレベーターは歩いたらいけない」と教育されてきたのは何だったのか。
背後まで近づいた男がジダンダを踏んだ。
それでも動かないでいると、背中越しに、舌打ちが、聞こえた。
エスカレーターを降りると、堰を切ったように足早な人たちが流れていった。
白い三角の目の大群が、ちらりとこちらを見ながら通り過ぎていった。


エスカレーターの上では、人間は2種類しかいない。
止まっている人と、歩く人。
左側の人と、右側の人。
今、エスカレーターに乗っている。
でも、左に乗っているのか、右に乗っているのか、判然としない。
真ん中に乗っているのだとしたらはなはだ迷惑な話で、それは避けたい。
止まるか、歩くか。
右か、左か。
けれどエスカレーターは、止まっていても、前に進んでしまうようにできている。
止まってるつもりでも、前に進んでしまう。
そういうことに気がついたのは、つい最近のことだった。