電車便

都心から少し(ずいぶん?)離れた海沿いの町に住んでもうすぐ2年になる。
引っ越しを決意したときは、仕事に支障がないかずいぶん不安があった。
けれども、住めばまあ、なんとかかんとかなるもので、そんなに困ることはない。
しいていえば、都心への交通費がばかにならないことと、通信の問題。
通信は、具体的には、出版界でよく使われるバイク便や自転車便を使えないこと。


午後8時。
電話が鳴り、ウチにある「あるモノ」を、都心にいる仕事相手に渡さなければならなくなった。
どうしても今日中に、手元にほしいという。
困った。
郵便や宅急便では間に合わない。
こういうとき、バイク便や自転車便が使えるといいのだけど、この町にそんな業者さんがいるとは思えない。
もしいたとしても、依頼したら数万円、下手すれば数十万円かかるだろう。
ベストな手段は、自分で持っていくこと。
しかし、そんな遅い時間から準備して都心に行くと、下手すると帰りの電車がなくなって、帰って来れなくなってしまう。
気弱なため、相手に「ここまで取りに来てください」なんて口が裂けても言えない。


困窮していると、電話口で、相手が冗談のように言った。
「電車に荷物だけ乗っけるってのはどう?」
名案である。
こちらの最寄り駅は始発。向こうは、終点。
その間、1時間。
1時間の間に、網棚の上の荷物を誰も盗まず、「忘れ物?」と誰も届けなければ、終点駅で待ち伏せた相手が受け取ることができるはず……。
そばで電話の内容を聞いていた家人はいった。
『無理よ。「不審物」と誰かが通報するわよ」
たしかに、オウム事件以降、不審な物を見つけたら駅員に知らせるように、といつも駅のアナウンスで言われている。
「電車に荷物だけ載せて、あなたは電車を降りるわけでしょう? 私なら通報するわね」
私でも通報するかもしれない。


結果、私は、賭に出てしまった。
駅に向かい、何食わぬ顔で電車に乗って、網棚に荷物を置き、椅子に座った。DK-7034 小田急ロマンスカーHiSE(10000系)
そして、携帯を取りだし、耳元へ。
電話がかかったので、せっかく乗ったのにしかたなく降りる羽目に……という、下手な小芝居を打つ。
そして電車が発車する前に、外に飛び出た
プシュー、と、ドアが閉まった。
さようなら、荷物、達者でな。目立たないようにじっとして居るんだぞ……。
電車が走り出したとき、近くに座っていたおばさんが、ホームの私を見ていた。


到着までの1時間、気になっていたのは、おばちゃんの目だった。
その目からは、私は、不審物を置いて去った、まぎれもない不審者だった。
もちろん、私の荷物は爆発物でも、異臭を放つものでもない。
しかし、もし、あの電車のどこかにホンモノの不審物があって、それが爆発なんてしてしまったら……。
「あやしい人物を見ました!」とあのおばちゃんの証言からみるみるうちに私の似顔絵が出きていったりしたら、私の身が危ない。
刑事の取り調べを受け、「嘘なんかついてません」と言えば言うほど嘘っぽく見えてしまい、掘らなくてもいい墓穴を掘って監獄へGO!
……とまあ、いろんな妄想が脳裏をよぎった。


1時間後。
相手から電話。
「いやぁ…………」
果たして結果は?
「無事GETしてしまったよ」
ほっっ。
でかした、荷物!
ちょっとしたスリルとサスペンス。
「電車便」、クセになりそう──。
(良い大人は真似しないようにしましょう)