クリスマスのある教会

クリスマスになると、にわかに教会に行きたくなる。
西の果て、南蛮渡来の文化の地に生まれたため、親族一同キリスト教
いわゆる「隠れキリシタン」の末裔らしく、祖父母の実家には、キリストが象られた「踏み絵」が残っていたりした(教科書で見たものが身近にあったので驚いた)。
それは銅製で鈍く黒光りしていて、触れると、とてもひんやりした。
弾圧された隠れキリシタンたちが目を背けながらこの「踏み絵」に足を乗せようとしたに違いない。


そんなわけで生後すぐに「洗礼」なるものを受け、嫌々ながらも毎週日曜日にはミサに通わされた。
「けいこ」と呼ばれる子供教室にも、中学まで週2回ほどのペースで行かされていたような気もする。
(お祈りのしかたや聖歌の歌い方、聖書の言葉などを教えられ、たまに懺悔もさせられる。教会の片隅の狭い懺悔室に一人で入るのが怖かった)

たまに「キリストさんはうまいこと言うなぁ」などと感心したりはしたが、理屈っぽい子供だった私は、キリストのことを「神の子」という根本的なところが納得いかなかった。
「神」の「子」とは、「神」なのか「人間」なのか。
どっちなんだ、と。
後に大学生になって、中沢新一さんの「宗教入門」という本を読んでみたら、まさしくそこが「キリスト教の不安定なところ」と書かれていて、とても合点がいった。
幼いころからさまざま仕込まれながらも、結局、自分がキリスト教に強い信仰心を抱くことがなかったのは、まさにそこが問題だったのだ。
信じなさい、と言われても、そっちが不安定だから信じることなんてできないよ、と。

話は逸れたが、つまりは、そういう理由もあって、今ではすっかり無宗教な私。
(むしろ、手塚治虫の『ブッダ』や、瀬戸内寂聴さんの影響で、仏教の方が自分に合っている気さえする)
でも──都合が良いときだけ「自分は信者だもんね」と思うのはどうかと思いつつも──クリスマスだけは、カトリックの血が騒ぐ。
無性に教会に行きたくなる。
それはやはり、20歳くらいまで、クリスマスは毎年欠かさず近所の天主堂のミサに行っていたから。
クリスマスのミサは最高にロマンチックで、天主堂には聖歌隊の歌とオルガンが響き渡り、「もろびとこぞりて」などを大合唱。数百人の人々が声が重なると、ものすごい勢いで、聖なる雰囲気に包まれていく……。
自分の心まで、清らかになるように思え、一年を締めくくるとても良い儀式だった。


去年のクリスマス、今住む町の小さな教会のミサに忍び込んでみた。
長崎の、あの天主堂のそれとは雰囲気が全然違っていた。
心がましろくなっていくようなあの感じが、まったくなかった。


それでも懲りずに、クリスマスには教会に行きたくなる。
同時に、長崎に帰りたくなる。天主堂も友達も消えた!―長崎への原爆投下 (ビジュアルブック 語り伝えるヒロシマ・ナガサキ)
(この本の表紙に載ってる教会に行ってました)